夏休み地球市民作文コンクールにたくさんのご応募をいただき、
ありがとうございました。
厳正なる審査の結果、ここに各賞の発表および上位4作品のご紹介をさせていただきます。
今後とも一般社団法人ECOを宜しくお願い致します。
地球市民最優秀賞
賞状・図書カード5,000円(1名)
題名:川も心も綺麗に
テーマ:自然環境
先日何気なく見たテレビで川の汚染についての特集がやっていた。
それは汚染されて生活が出来なくなった魚達に、
川を綺麗にしてもう1度戻ってきてもらう、そういう企画だった。
それを見てから私も何か環境の為に出来ることはないかと考えるようになった。
そんなある日、地元の川で「クリーンアップ大作戦」という川辺の掃除を行う
取り組みが行われるというのを耳にした。私は迷わずそれに申し込んだ。
いよいよ、クリーンアップ大作戦の当日になった。参加者は30名ほどで、
ご年配の方が多かったのを覚えている。私は早速軍手をし、袋を片手にゴミ拾いを始めた。すると、すぐに袋をいっぱいにするほどのゴミが集まった。
ペットボトルや缶、お菓子の袋や何かのプリント、
そして自転車やタイヤという大きなものまで捨てられていた。
私は正直こんなにも多くのゴミが落ちていることは想像を遥かに超え、
とても衝撃的だった。たしかに同じような光景をテレビで見ていたのだけど、
地元はまだそこまででは無いだろうと勝手に思っていたのだ。
実際はもはやゴミ置き場とされていて、綺麗とは程遠い状態だった。
そんな中、掃除を続けていると、川に1匹の亀を見つけた。
その時たまたま近くにいたお婆さんに教えて頂いたのだか、
この川には昔は多くの生き物が住んでいた。
しかし今は、川が汚染され水質が悪くなり、その生き物が減ってきているそうだ。
それを聞いて私は、また多くの生き物が暮らせるそんな川になってほしいと強く思い、
掃除をより頑張ろうと決意した。
掃除も終盤にさしかかり、集めたゴミは沢山の袋に詰められていた。
今まで何も考えず通っていた川だったが、
掃除をする事によって新たに発見することは多かった。
水辺では鳥がのんびりと過ごしていたり、蟹が忙しそうに歩き、
川辺には犬と散歩している人や、ランニングしている人、
ベンチで休憩している人など多くの生物がこの川と共に生活していた。
だからこそ、この川をより綺麗ですごしやすい環境にしたいと思った。
掃除が終わると、掃除を始める前より少し空気が綺麗になった気がした。
気のせいかもしれないが、それだけでなんとなく嬉しかった。
掃除をする事で自分の気持ちもスッキリした。
そして、沢山の地元の方のお話も聞け、本当にとても良い経験となった。
また掃除しに来よう。参加賞のお茶を飲みながらそう心に決めた。
地球市民優秀賞
賞状・図書カード3,000円(3名)
題名:生ごみ処理について
テーマ:自然環境
生ごみの処理方法について述べたいと思います。
ゴミの処理問題は自然環境に対して大きく影響を与える問題です。
現在、生ごみは可燃物として焼却処理されていることが多いかと思いますが、
これは、燃えにくく石油をかけて焼いています。
都会ではある程度仕方がない問題かもしれないですが、
私は現在、田舎の比較的敷地に余裕のある地区で生活しています。
私自身は生ごみ処理はコンポストに入れ、その上から土をかけて、
微生物に分解させています。時間はかかりますが、
いくつかのコンポストを順番に使用し、
できた土はパンジーやチューリップを育てるときの肥料分豊かな土として
再利用しています。
祖母の時代には土に穴を掘り、生ごみ処理していましたが、
近年里山も荒れ、動物が夜中に掘り起こすので、コンポストのほうが安全なのです。
当地区でもゴミ焼却炉の故障等の問題が起こりゴミの廃棄は有料となりました。
しかし、当地区でも自分の家で生ごみ処理している人は少数派です。
いつも可燃ごみを出す日に残念だなあ、と感じています。
少しでも二酸化炭素の発生を少なくし、自分でできることはしたい、と考えています。
有機物の分解は微生物をぜひ利用していきたいです。
題名:子ども達に自信を持たせたい
テーマ:教育
自信を持たせるために私がやっていることは、子ども達の得意分野を見つけ、
そこで誉めることである。
我が子で言えば、小6の息子は絵画が得意だ。
こだわりが強く、時間をかけてゆっくりと描く。
他の子たちがさっと仕上げて終わらせても、息子はなかなか終わらない。
最後まで残ってでも自分のペースで仕上げていく。
この才能を私と妻は認めている。
だから、他の教科で点数や成績が悪かったとしても、
「お前に絵画があるじゃないか」と言う。
特に、息子は運動が苦手で、スポーツの分野ではなかなか芽が出ない。
それでも、「絵画が得意」という自信が、それを補ってくれると思っている。
小3の娘は運動が得意だ。運動会の選手リレーにも毎年選ばれる。
体を動かすのが大好きで、土日もそういうレジャーランドに行きたがる。
プールに行けば、最後まで泳いでいる。小6の息子とは対照的である。
だからだろう。娘はじっとして作業を行うことが苦手だ。
得意な教科は体育と図工、音楽。他の教科は「めんどくさい」と切り捨てる。
でも、「運動ができる」と私や妻が誉めているから、
他の教科が悪くても自信を失ったりしない。
思うに、子ども達に自信を喪失させるのは、大人のせいではないか、と思う。
叱った後ではフォロ―が必要だが、そのフォロ―が無かったり、上手でなかったりすると、たちまち子ども達は自信を失ってしまう。
そこで有効な言葉は「お前ならできる」
「ここがだめでも、お前には○○がある。大丈夫だ」など、自信を持たせる言葉だろう。
逆に、「全くお前はだめなのだから」「いつもそうだ」など、
人格否定をする言葉が自信を失わせてしまう。外国人と比較しても、
日本人は自分に自信を持つ人が少ない。
それは、教育の面から改善しない限り無理だと私は思っている。
国語科の教員としても、生徒に自信をつけさせる工夫をしている。
創作活動を位置づけ、コンテストなどにも全員参加させる。
入賞すれば、それが大きな自信に繋がるからだ。
教え子の中には、作文が入選したことで自信をつけ、
国語科の教員になった生徒もいる。
国語嫌いだったのに、俳句が入選したことで自信をつけ、
次の学期の成績がニ段階アップしちゃ生徒もいる。
学校の授業こそ、子ども達に自信をつけさせる、もっとも有効な場である。
大人に提案したい。子ども達に自信をつけさせたいなら、かける言葉に気をつけよう。
決して人格の否定をしたり、自信を喪失させる言葉をかけないことだ。
「言霊」と言われるように、言葉には不思議な力がある。
気がつかないうちに相手を痛めつけないよう、言葉には配慮すべきだろう。
子ども達に自信をつけさせることで、
将来的に世界で活躍できる国際人を育成したい。そう思っている。
地球市民奨励賞
賞状・著書「人生120年の選択」(10名)
題名:あなたの言葉に救われて
分野:1.人間性回復
人は皆、平等だ。
著名な学者や、人生を悟ったかのような顔をしている人はそう口をそろえる。
正直、「どこがだ?」と不快感を催される。
それは僕だけではなく、先天的に病気を持つ人、後天的に病気を持った人、
みんながみんなそうではないと解っているが、僕は強くそう思う。
もしかしたら、本人よりも家族や友人の方が強くそう思っているのかもしれない。
綺麗事を、何も知らないクセに、解ったような口を、あなたに何が解かる?
自分という存在に絶望した時、世の中の不平等を憎み、呪う。
誰しも好きで障害者として生まれてきたわけでも、なったわけでもない。
親も「どうして自分の子だけ?」と思っている筈だ。
それが全てだと思う。
どうして? 答えのない答えを問い続ける日々の終わりなき泥沼の思考。
ハッキリ言って、一体どこが平等な世の中なのか問うてみたい。
何を根拠に言っている?
健常者もいれば障害者もいる、人生を謳歌した人もいれば生後間もない
生きられなかった赤ちゃんもいる、親の愛情を一身に受ける子供もいれば
親のエゴで殺される子供もいる、平和な世の中に生まれた子供もいれば
戦争が日常と化した世の中に生まれた子供もいる、
友達とスクールライフを満喫する子供もいればクラスメートに
理不尽な理由でイジメられ自殺する子供もいる。
世の中、決して平等ではない。そう思わずにはいられない。
本当に平等な世の中なら、このような苦しみも悲しみも味わうことはなかった筈だ。
だけど、不平不満を並べたところで何も変わらない。
悲しいかな、残酷だけどそれが現実。
それが現実……こうやって割り切れる人は本当に凄いと思う。
ネガティブで迷いっぱなしの僕には無理だ。
それでも、それでもたった一人だけでも、
自分という存在を認めてくれて理解してくれる人がいるだけで本当に救われる。
その人の言葉に勇気をもらい,生きる力と希望が溢れるように湧いてくる。
それは障害者だけではなく、健常者も同じだと思う。
その人の言葉に救われ今の自分がいる、
そういう人は日本に留まらず世界中にたくさんいる筈だ。
僕もいつかそういう人間になりたい。
僕は障害者だから、そんな理由だけで目を背けたくない。
障害者であることは紛うことなき事実、
それでも今の僕にも僕にしか出来ない事がきっとある筈だ。
今は見つからなくてもいつかきっと見つかる、そう信じて未来を歩み続けたい。
人は皆、決して平等ではない――だからこそ、お互いの主張や人格、
価値観を理解して尊重できる。
その中で生きるのは確かに難しいかもしれない。
けど、それが人生ってもんよ。
題名:福祉ロボット
分野:5.文化・アート
題名:小さいことから、コツコツと
分野:3.自然環境
環境問題に目を向ければ、ひとりの力ではどうすることもできないように
感じてしまう問題もたくさんあります、
できることから取り組む、その小さな積み重ねが大切。
物が多いとゴミが増えるんです
加工食品を減らしましょう。ゴミが減ります
暮らしをシンプルにすると、ゴミは減ると思います
昔ながらの暮らしを大切にしたり、ちょっとだけ視点を変えてみることで、
私たちにもできるエコな選択肢は、私たちの身の周りに溢れています。
題名:持たぬが宝
分野:1.人間性回復
固定電話が主流だった頃、うちにはその電話がなかった。
貧乏だった親を恨んだものである。なぜって、子供はやはり人があって
当然のものはあるはずだと思ってる。私もそうだった。
テレビゲームが流行ると皆がそれを持っていた。うちにはなかった。
遊びに行っても友達はゲームをしていて私はみているだけ。つまらなかった。
多分今もそうだろう。
小さな子がスマホを持っていたりするが、持たせてもらえない子も買えない親もいる。
持てないと仲間外れにされたり、疎外感を感じる。
そんな物のために親を恨んだ自分の馬鹿さかげんを反省できるのはずっとあと。
物が溢れる日本に育つと便利な何もかもを持てて当然という錯覚に陥る。
年を重ね、健康であることだけに、生きていることだけに
感謝できるようになると何も持たないいことこそが幸せなのだとわかる。
川辺を歩く若者はずっとスマホを見ている。
私は後ろからその姿を見て思う。もったいないな、画面の中の人と遊ぶなんてと。
見渡せば水鳥がいて名も知らぬ花が咲き、虫たちが動いている。
空は青く、そして今年は暑い。それを目で感じないなんて。
私は友達がいない。そういう道を選んだとも言える。
ケータイもあるけど仕事で使う程度。
今は皆が持っているものを持っていないほうが誇らしく感じるし、
洋服も着回せばいいから新しい物は要らない。
鞄もひとつあればいい。靴だってそうだ。
信じるものはインターネットの中にはない。
自分が目で見ることのできるものだけを信じなければ。噂を信じてはいけない。
何も持たなければ自分がこの自然の中で生かされていることにようやく気づく。
今の幸せはベランダに来る揚羽蝶。たまごを産み、
幼虫が柑橘の葉っぱをきれいに食いつくし(今年は食糧難)
蛹から揚羽になるまでを時間を気にせず見守る。
何故かとっても幸せな気持ちになれる。
何も持たないことで自分は皆とは違う、劣っていると思っていた幼少期。
親を恨んだなんて、今はそんな生活を与えてくれた両親に感謝する。
何も持たないことこそ宝物。
それがわかれば信じる者は自分しかいなくなる。
それが人間本来の姿。そして自分の姿なのだと私は思う。
題名:今自分に出来ること・・・
分野:3.自然環境
私は、現在広島県住んでいるものである。二千十八年、七月六日に
西日本土砂災害が発生した。私は、四年前の二千十四年、八月二十日に発生した
広島土砂災害でも被災し生まれて二回も災害を肌で体感した。
四年前の広島土砂災害では、飼っていた犬も亡くなり避難所生活も一ヵ月程経験した。
災害を経験し、本当に辛い思いでいっぱいになったが、
へこんでばかりではいられないと思って自分にできる災害支援活動や
ボランティア活動を行った。
ボランティアももちろんだが、自分にできる活動はなんなのか真剣に考えた。
考えた結果自分は、芸能活動を行っておりエンターテイメントで
みんなを元気づけようと考えた。
普段は、ミスターワールドとしてモデルや俳優として活動をしている。
みんなが喜ぶことはやはり緊張感があってドキドキすることが良いと考え
2015年にTBSテレビのSASUKE2015に出演した。
少しでも災害の時に体験した嫌な思いをテレビを見ることによって忘れてほしい。
そう思ったからである。
この模様は、ニュースや新聞に取り上げられ被災者の希望となった。
被災者が被災者を勇気付ける奇妙な光景だが私は、
みんなの事を考えたら居てもたってもいられなかった。
そして、自分がSASUKEに出演するという報道によって
被災された方々から「勇気がでた」「また生きる希望が湧いた」
「みんなの為に本当にありがとう」など嬉しい言葉を沢山いただいた。
その後も公民館での空手の演武や炊き出しなどの活動も続けた。
現在は、広島土砂災害は堤防も出来て安全な状況になりつつある。
だが、現在は、西日本豪雨災害発生によって各地でまた激しい被害が出ている。
土地の被害もそうだが、一番の被害は、災害によって植え付けられた恐怖であると考える。恐怖で支配された心の傷は根が深く本当に厄介なものだ。
私も未だに雨の音を聞くと怖くなる時がある。
心の傷は時間をかければ消えるというが、
心の奥底に刻まれた恐怖はなかなか消えないものだと実感した。
しかし、消えないかもしれないが、瞬間的に忘れることはできる。
災害とは、非日常なものである。非日常は日常では、忘れることはできない。
非日常は非日常で上書きするしかないのである。
これからも被災された方々に一日も早く心の回復をしてもらうべく
自分の出来る活動を行っていきたい。
題名:大丈夫。そのままでいいんだよ。
分野:1.人間性回復
「自分を変えたい!」春になるとそう思う私。
自己啓発本を読んだり、新しいことにチャレンジしたりします。
しかしいくら本を読んでも、偉い人の話を聞いても、
新しい経験をしてもしょせん私はワタシ。
今まで変われなかったのに急に変わるわけはなく、
目に見える変化がないとすぐに挫折してしまいます。
自己肯定感が低いからかな?
幼いころから周りの大人に否定ばかりされてきたからかな?
そんなマイナスのことばかり考えて、周りのせいにばかりしてしまいます。
結局自分を変えようとしているのに、
周りが変わってくれるのを待っている自分がいて、
それに気づいてまた自分を責める。いつもこの繰り返しでした。
きっと多くの人が私と同じような負のスパイラルにはまっていると思います。
私の姉もそうです。他人と自分とを比べてしまう。自分の意見を言えない。
そしてたまった不満を爆発させる。そんな姉の姿を見ていると、まるで
自分自身を見ているようでした。
そんな姉を見ていると、「大丈夫、そのままでいいんだよ。」と思いました。
私は自分に、「私はワタシ。変わらないといけないときには、変わるもんだよ。
今のままで十分。何を自分や他人に期待しているの?」と話しかけました。
自分の力以上のことを望んでしまうから、できない自分に失望してしまう。
だから初めから期待しない。このことに気付いた私は心が軽くなり、
自分がいかに幸せかも知ることができました。
自分が楽しい時には一緒に笑ってくれて、私が泣いている時にはそばにいてくれる。
そんな家族がいること以上に幸せはありません。
季節は巡り春がやってきたとき、またいつもの私の変わりたい病がでるかもしれません。でもそれでもいいんです。大丈夫。そのままでいいんです。私は幸せだから。
題名:教育で大切なこと
分野:4.教育
私の小学校、中学校時代を振り返ると音楽や美術が非常に苦手で、
音楽では音程が全く取れずに先生にたくさん怒られたり、
クラスメートから邪魔者扱いを受けました。
当時一生懸命歌っていましたが、全く音程が取れないのです。
その経験が全てではありませんが、
私はどんなに努力しても出来ないことはあると考えています。
勉強でも、芸術でも、スポーツでも、何であれ人によって向き、不向きがあります。
一生懸命努力すれば、一定水準の力に達すると主張される方もおります。
しかしそれには個人差があります。
どんなに努力を一定水準に達しない人、そもそも努力が全く出来ない人。
大切なことは、一生懸命やっても出来ない人に対して出来ないことを
注意や非難することは、虐待だと考えています。
私もつい最近まで皆が努力自体は出来るものだと考えていました。
きつい言い方ですが、努力が出来ないのは、その人の怠慢でしかないと考えていたのです。努力をしないのは、やっても出来ないから努力をしないそうです。
やれば出来る、必ず出来るという考えで教育をしたら、
子供は余計にやる気が無くなり、悪循環になってしまいます。
教育で大切なことは安易に努力を求めるのではなく、方法を示したり、
環境を整えることです。自分に出来ないことは皆が皆出来る訳ではないとわかりますが、自分に簡単に出来たことや努力自体を小さい頃からやっている人にとっては
周囲が出来ないことは、努力不足だと考えてしまう傾向があります。
私は努力が無意味、無価値だと考えていません。
勉強でもスポーツでも努力したにも関わらず結果が出なくても、
努力をしたという経験が違う分野で必ず活きるので最終的に努力は報われます。
人が人に対して努力を求めることは当然のことですが、
努力を求める人の水準に満たないと努力を強要される人にとってはいじめになるのです。クラス全員が出来るのに、何であなたは出来ないという言葉を伝えるのは
虐待、いじめです。
人は教育によって遅い、早いの違いはありますが、必ず良くなります。
しかしその教育方法が正しいか間違っているかは短期間でわかるものではありません。
ある人には正しいことでも、ある人にはふさわしくない場合があります。
何が正しい教育かはわかりません。
少なくとも、子供にとってそれがトラウマになってしまうのは、ふさわしくありません。教育者、指導者は教育の現実を受容して日々向き合っていくべきです。
農業、金融、貿易、全ての仕事は人によって作られます。
人に対する教育は私達の明日を創るものです。
長期的視野に立ち、教育を考え、実践していくことが大切です。
題名:私は世界中の誰より私を愛してます
分野:1.人間性回復
親がいる子なら誰とて自分を愛してくれる。これは当たり前ではありません。
なぜなら私自身がそれを身をもってわかってるからです。
一番身近にいる人に愛されてない。
自分の大好きな人に大切にされてないと自覚してしまうと自分が壊れてしまいます。
頭がグチャグチャになり精神的に追い込まれてしまうのです。
自分自信がグチャグチャなのですから誰かに優しくなどできるはずがない。
ここに気づいたのです。
別に優しい人になりたいなどきれいごとを言うわけではありません。
しかし自分自身が壊れてる間、私は決して人に親切など一切できませんでした。
いつも誰かをうやむような生活。自分の一生こんなんで終わりたくない。
精神科に行くなどもってのほかだ。自分がこれ以上可哀そうな目にあうのなんて
一生がもったいないじゃないか!!
そう思い始めたのです。
私はそこからはいあがりました。
誰が何を批判しようと自分だけは自分の味方であること。
もう一人の応援する自分が私の中にはいます。
弱くなる時はそのもう一人の自分に力をもらいます。
誰よりも自分を大切にできるのは自分だけ。私は愛されている。
自分自身が愛に包まれてからはいろんな人に親切になれました。
見知らぬ人で助けたい。WEBでも悩んでる人に力を貸したい。
ケチだった私が寄付をしたりしたのもこの頃からです。
今は結婚もして幸せな家庭を作ってます。
相手を幸せにしてあげたい。それは自分も幸せになりたいからなのです。
相手の笑顔が私に幸せをくれる。笑顔をくれる。
その世界を作るには自分自身に余裕と愛が必要なのです。
それがあればどんな人でも絶対に自分をとりもどし、幸福な人生が待ってます。
もっともっとみんな自分を愛するべきなのです。
躊躇せず、多少自分勝手な思い込みでもいいのです。
そこからスタートできるのです。
だからこそ断言するのです。
私は世界中の誰より私を愛してます。
どうか人間本来の愛するという素晴らしさを、
この素敵なものを思い出してください。
人間性の回復には「愛」が不可欠なのだと。
今一度意識してください。
題名:1分運動と私
分野:2.健康
私が1分運動を21日間続けて得た変化が二つあります。
まず、心の管理が出来るようになったこと、
その次に時間の管理が出来るようになったことです。
時間の管理については、1分運動と出合う前から良く出来ていた方だと思うのですが、
時間に追い立てられてあくせくと動くのではなく、
限られた時間の中でどのように過ごそうかと計画を立てる余裕がつきました。
私は普段訪問ヘルパーの仕事をしていますが、
決められた時間の中で効率良く動いていくことが求められます。
時には人相手なので時間や効率ばかりを優先できないことも有るのですが、
与えられた物をデザインし、ちょっとでも
「その日はやろうと考えたことが一つでも多く出来た」という感覚を掴み続けたいです。
次に心の管理についてですが、元々感情の起伏が激しく、
落ち込んでも立ち直るのに時間のかかるタイプでした。
1分運動をすることで、一呼吸おいて物事に取り組めるようになりました。
自分を振り返り、他人には余裕を持って接することが出来つつ有ります。
感情的な涙も減りました。
1日10回は取り組むと決め、決めるまでは出来ない日が多かったのですが、
やろうと決めたら出来る日が自然と増えました。
また、同じ1分でも「さっきの1分は心がこもってなかったな」と感じると
やり直しをしています。とにかく、取り組みやすい環境にあることが
続けられている秘訣と思います。
これからも自分のために取り組み、少しずつ社会に還元したいです。
ありがとうございました。
題名:共感性社会の実現
分野:1.人間性回復
共感性社会とは、一人一人が人間的な感性、
即ち他を思いやる心を獲得していくことにより、他人、他の生命に対する敬意をもち、
人々が生きてあることに感謝出来る社会である。
共感性とは、物事の本質を直接的に感受する能力即ち、
他人のことであっても、直接自分に起こっていると同様に感じる能力である。
他人や動物の体験をそのまま感受できれば、
全ての物事は自分に起こっていることとして体験することになる。
他の生命に対して無関心ではいられなくなる。
共感性は人間に本来的に備わっているものではなく、
努力して初めて獲得されるものである。
例えば、クラッシック音楽など最初は音の洪水としか感じられず、
その良さを感じるまでには、相当時間がかかる。
たとえ何かに感じても、それで直ちに全てのクラシック音楽に感じることが
出来るものでもない。人間は共感性を獲得する可能性を秘めた存在ではあるが、
それが発揮されるためには、これを目覚めさせるべき努力が必要なのである。
しかし、我々は「人間には先天的に感性が備わっている」と勘違いしており、
それを獲得するための努力など考えたことがない。
そのために、子供の頃に有していた感性(子供は情報で動くのではなく、
直感的なものによって動くので、感性の獲得は容易である)でさえも劣化し、
その場限りの感情に支配され、結局トラブル続きの内に人生を終わることになるのである。
では共感性を獲得する努力はどの様にし起こるのか。
それは、共感性を持つことが自分の生を豊にすることを実感することである。
即ち、共感性を持つこと自体が自分の人生に報酬となっていることに気付くことである。それ自体が楽しみであることを知れば、
殊更「努力」など力を入れなくても、自然に出来るようになる。
もう一つ、共感性の獲得を妨げているものは、
自分さえ良ければいいと無意識(=エゴ)に気付く事である。
自分の汚い部分を認識できれば、これを超えていこうという努力も
自然に起こることになる。その努力もまた、自分の人生の報酬となっているのである。
まとめれば、人間は、まず「このままでは共感性を持っていない」という事実を
認識することである。誰も「自分には共感性がない」という事実を認めたくない。
しかし、自分は他人のため,他の生命のために涙したことがあるかどうかを問えば、
共感性はないという事実に気付かざるを得ないだろう。
これが認識できれば、「自分には意図的にこれを獲得する必要がある。」という
結論に辿り着くことがでいるだろう。
人間の共感性や、優しさ、他を思いやる心といった高級感情は、
いずれも意図的に努力しなければ身につかないものである。
しかし、このことに人間社会は気付いていないために、
何の努力もせず、混乱の極みに陥っていると思われる。
題名:私自身がモラルを持って生きる事
分野:4.教育
母になりました.
子どもたち2人が私を見ています.
恥ずかしくない私であり続けると共に,
恥ずかしくない大人に育てる責務があると思っています.
人間ですから,常に聖人であり続ける事は難しいですし,
常識も人の数事あると思うので,何とも言えませんが,
周りの人に迷惑はかけないようにしています.
朝,ゴミ出しの時に,ずっと置いてあるペットボトルに
フィルムがついたゴミが収集されずに残っているのを見ます.
恐らく,週間単位で経っているので出した本人は必ず目にしているはずです.
それなのに,どうにかなるのを待っている.
どうにもなりません.
自分で動かないと何も起きません.
以前,私もプラの回収の日にPPバンドを入れてしまい(プラだと思っていました…),
収集されずに残ったゴミを目にした時,持って帰って分類し直しました.
次からは絶対にPPバンドを燃えるゴミに入れています.
間違いはあります.
そこを,どうするかで人間は決まってくるのではないかなと思います.
ゴミが落ちていたり散らかっているのを見たら,ある程度は片付けます.
敷地内に,明らかに当方のごみではないものが飛んできています.
食べた人が最後まで責任を持って処理をするのが基本だと思います.
それが出来ない人は,食べたり飲んだり使ったりは出来ないと,
子どちにも話しています.
地球で生きる人間として出来る事を行い,
次世代の人へ環境も知恵も知識もモラルも引き継いでいく事こそ
現代に生きる私たちがすべきことだと思います.
題名:クリーンアップのゆめ
分野:3.自然環境
あなたは目の前にたばこの吸い殻が落ちていることに気づいたらどうしますか??
私は2か月に1回程度、子供たち、地球市民仲間と公園や周辺を
クリーンアップしています。
子供たちは宝探し気分で楽しみながら一生懸命取り組んでいます。
時に「クリーンアップをしていてすごいね!」と言われることがあります。
ゴミ袋の中にゴミを入れてくれることもあります。
声をかけてもらえることは嬉しいですが、本当にすごいね!なのでしょうか。
いつもクリーンアップするのは同じエリアです。
けれど、毎回ゴミの量は減っていません。
ある日ふと『クリーンアップの本当の目的は何なのだろう?」と思いました。
クリーンアップを実施し、一時的に街はきれいになりますが、いたちごっごの状態なのです。
本当はクリーンアップの必要がなくなる社会をつくること。
それは個人が「ゴミをすてない」という意識をもつこと。
「地球を大切にしよう」という想いを人類が共有すること。
人間性を回復して地球市民の意識をもつこと、に尽きると思います。
子供のとき、大人から「ゴミはゴミ箱へ」と教わりました。
それで「ゴミはそこら辺に捨ててはいけないんだ」と学んだのです。
なぜいけないか?まで考えることはありませんでした。
捨てられたゴミによって自然が壊されたり、動物たちに影響を及ぼしているか、
そのことを子供たちにも伝えて自然環境問題が身近な問題なのだと気づいてほしいと思います。
今はスポーツ観戦後にクリーンアップをする取り組みが行われていたり、
クリーンアップは気軽に身近なものにもなりつつあります。
行動だけでなく、地球市民意識が広がることが理想であり、
最終的に地球の私たちの心の中がクリーンアップされたとき平和な地球が
誕生するように感じます。私たちがクリーンアップする姿を見た人たちが、すごいね!ではなく「自分もやろう」「これからポイ捨てはやめよう」と自分自身の心の中にクリーンアップの芽が出ることを目的にして、これからもクリーンアップを続けていきたいと思います。