人生120年プロジェクト大賞コンテストにたくさんのご応募をいただき、ありがとうございました。
厳正なる審査の結果、24作品が選出されました。
ここに各賞の発表および作品のご紹介をさせていただきます。
今後とも一般社団法人ECOを宜しくお願い致します。
ECO賞
書籍『人生120年の選択』(4名)
僕は人工呼吸器を付けている身体障害者。
人生設計を描けるほど、余裕もなければ先見の明もないのが正直なところ。
それでも僕は今を生きる、そう思っている、そう誓った。
けど、障害者である事をこれまで何度も呪ったのも事実。
どうして自分は障害者なのか? どうして自分は障害者として生を受けたのか?
自分は何故生まれてきたのか? 自分に生きる価値はあるのか?
決して答えが出ることがない答えを、自分に問いかける日々に苛まれた。
兄は健常者なのにどうして自分は障害者なのか、自分を自分で殺したくなるほどの思考に陥った事もあった。思えば思うほど、考えれば考えるほど、決して終わる事のない思考の闇に彷徨い続ける。それでも僕はどこまでもあがいてみせる。 今を、未来を生きる為に。生きたいという想いは、健常者だろうと障害者だろうと関係ない。確かに障害者が人生設計を描くのは難しいかもしれない。 それでも、誰もがみんなそう願って生きている。障害者が人生設計を描くのが難しいのは事実、それでも、決して悲観したり諦めたりする必要もないのも事実。何があろうと、周りからなんと言われようと、最後まで諦めなければ道は開かれる。誰も、闇に彷徨う必要なんてない。 生きたいと思っているのは、誰もがみんな一緒だから。 自分は障害者だから。 そんな諦めムードを漂わせて生きるなんて、まっぴらごめんだ。
人生120年? 人生設計? 明日も生きられるか分からないのに?
それでも生きると誓う、明日の自分に会う為に。そして僕はこう言うんだ、また会ったな――
今を生きて未来を生きる、それが僕の人生設計…になるのかもしれない。
描いていたものと違う退職後の暮らし。体中にマンネリ感あふれていたころ、
書籍「長寿村100」ほかテレビのご長寿番組を盛んに見て、ハタと膝を打った。
長寿への鍵は「里を耕し、里のものを育て、食べること」だと。
私の場合、街中でこれを実現する必要があったが、しばらくして再びハタと膝を打った。
「そうだ、庭を畑にして農業をやればいい」と。
善でなくとも思い立ったら気が急く性質がこの場合幸いした。
土づくりからはじまり、育てる野菜、種まき時期のほか、
施肥の仕方などを学びつつ四畳半二つほどになったところで、様になってきたと言われるようになった。「これ以上広げるな」と助言もある中、ブルーベリーにも手を出し、順調に収穫が得られるようになった。ご近所や友人にすそ分けをしつつ、よりよい質のものへと欲求も出てきており、これも太陽と大地の力を吸収しているおかげと悦に入っている。
元気に古希超えを果たし「耕して夢への挑戦マイロード」と、
決意新たに人生120年を目指そうと思っている。
人生120年と考えた時に、わたしはあと100年生きる。100年後の未来がこうなっていてほしい、ということをイラストにしてみました。AIの技術が進歩して人間と同じように生活するロボットがたくさんいたり、世界中のあらゆる国の人と普通に会話が出来たり、自動操縦の乗り物が普及したり。だけど、そんな中でも緑がたくさん。技術が進歩していくだけではなくて、地球を大切にしようとする人がもっともっと増えていてほしいです。
120年を生きる楽しさをすごろくで表現しました。
(株)セント・ミ―ズ・
カンパニー賞
かぼくモイストジェルクレンジング&マッサージ
ボディウォータ― ビーワンアクティブ
(各1名)
『わたしの人生120年 わくわく計画』
私は現在56歳、Brain Up こども脳教育教室と日本ベンジャミン人間性英才学校の講師を行っていますが、童話作家、絵本作家になる夢も持っています。これからの自分の人生をワクワク創っていく計画をしました。
●今から~60代、70代
地球の美しさや生命の輝きを伝え、子どもたちが自分の魂とつながって、夢や希望を持って人生を創造的に生きていきたくなるような、童話や絵本を創作して世に出します。そして、沢山の子どもたちに読まれて子どもたちを元気づけ、大人の価値観を変えるお手伝いをしていけたら嬉しいです。そして、子どもたちが夢中になって読んでくれるようなお話が書けるようになって、その中に脳教育の創始者である一指李承憲グローバルサイバー大学 学長の心や、壮大な脳教育のエッセンスを伝えていくことを目指しています。
5年以内に童話大賞を受賞し、講演活動やワークショップで各地をまわるようになっていきます。著作活動は生涯続け、ときどき賞をいただいたり、3カ国~7カ国語に翻訳されて講演にも招かれ、「旅する絵本・童話作家」となって世界中を回り、いろんな人に出会います。その活動を通して「地球市民」を伝え、増やしていきます。
著作活動で得た報酬は、国内国外の子どもたちの教育のために使っていきます。
子ども向けの本とは別に、親のための本も著して子育てに大切なことを学べるようにし、親になる前に生まれてくる命の意味や脳教育の観点から育児を伝える家庭脳教育を広めていきたいです。この活動は、やがて脳教育保育園を生み脳教育小学校が創設されます。その際には、カリキュラム作成・教科書作成メンバーの主任になって、地球市民リーダーを輩出するにふさわしい最高のカリキュラム、教科書、教材を創っていきます。
学校まで創るためには、沢山の人の力を集めることが必要です。そこで、コミュニティ・デザインを学んで、いろんな分野に散らばっている(平和な地球にしたい、誰もが健康で幸せに生きていけるようにしたい)心ある老若男女が集まって活動できるような場作りも行っていきます。この活動は、シルバーエイジや社会に埋もれていた人々のマンパワーも生み出し活性化していくので、区長/都知事から表彰を受けます。そして、そこから色んな活動が生まれて広がりながら、脳教育小学校創設メンバーもできていきます。
●80代、90代
緑に囲まれた「瞑想センター」のような場所が暮らしの拠点となり、自然のリズムで暮らします。朝日と共に目覚め、光や風と舞い、植物や昆虫と話ができるようになりたいです。
また、今までの活動も継続し成熟させながら、新しいことにも挑戦します。
①その頃には、空飛ぶスーツも一般化しているのではないか?と思うので「空中気功、空中丹舞のインストラクター」になって、生命エネルギーを自由に表現する喜びを皆に伝えます。
②「平均年齢88歳のコミックバンド」を結成したりして、年取るっていいなあ、楽しいなあ~と思われるような活動もしたいです。
●100歳~120歳
100歳を過ぎたら、1日1食で仙人のような生活になります。それで頭も冴えて、体も柔らかく軽い。自然とひとつになった暮らしで、全ての活動はペースダウンしますが、かつてよりさらに洗練されたものになります。そうして120歳のある晴れた日に自分と周りの人と地球に感謝して、この肉体と別れます。自由となった魂は、地球が平和で明るくなるように見守ります。
人生という山に登って到着した時(目的を達成した)山の向こうに綺麗な虹が広がっている。
120歳まで生きるという選択をして使命を果たします。
HSP Healing Café
カクレミノ家賞
お香 カクレミノ香りミニ & HSPエコせっけん
(1名)
『知的障害者のコミュニケーションツール絵画を
地球の共通語として会話を広めたい』
75歳の私が主催する月3回開催している平均年齢69歳の障がい者自立支援革工芸グループで4月の某日、自称認知症軍団の7人が集っての楽しい昼食時間であった。私が「人生120歳の選択」の本を出してじゃんけんに勝った人がおもむろに開いた頁の一つのセンテンスを読み感じたことを全員で語り合うという読書会を提案した、開いた頁は「人生三つの悟り」であった。
それは、~「人生は苦」と「人生は無常」と、魂が神性と出会って一つになる私たちは明るい大きな光と共に計り知れない歓喜と平和を体験する、そして小さな私でなく宇宙とひとつになった宇我一体の「無」「無我」の第三の悟りです。~それぞれが創造した夢を語り合うことになり、その夢の達成には120歳までを生きよう心身を健康に保って魂の完成を目指そうであった。
私は知的障害を持っている孫娘が描いた絵で彼女からのメッセージを受け取りコミニュケーションを取れているが、その対話絵を社会の地球の会話ツールとして広宣したいとの夢を語ったのだった。
孫娘は千葉市で生まれ育ち市立の小学6年支援学級に通っています。3歳頃から画用紙にクレヨンで丸や四角を書きなぐっていて絵としての完成にはなっていませんでした。5歳から祖母と近所の絵画アトリエに通うようになって小学生ころまで線を書き交わった空間に色を塗る抽象的な絵を描き続けていました。その後に置きものの鳥やペットボトル等のモノと楽しく遊んでいる時の感触や表情をマーカーやマジックインキ等で表現するようになったが、私との会話は成立しなかった。
アトリエの先生の推薦もあって作品として各地の展覧会に応募するようになり、『19本の食器洗い洗剤』は大阪府の堺市で障害の才能があるアーチィストの発掘と育成を目的で開催された「国際障害者交流センター〈ビックアイ〉絵画展」に出品し佳作を受賞。『太陽と月』は障害あるアーティストの所得向上を目指す活動の一環として東京都で開催された「林原国際芸術?希望の星?太陽と月を描く展」に出品して佳作賞を受賞することができた。
両展覧会を観られた方から作品との出いを感想文としていただきました。その方は主婦で子育ての合間に対人関係を不得手で学校へ行きたくない、イライラしている子どもたちに一人ひとりに合ったた教材を手づくりして、対面式で学習を楽しくし身に付けさせ大学の門をくぐらせる寺子屋活動を40年間続けられている塾の先生からでした。
「自分とものと現象、その空間との場で語りながら交流し、感じる感じたそのママが描かれていて、鑑賞する者と画家とが会話をしているように交流させてくれた対話絵でした。太陽は宇宙の目と大胆に表わしていて、太陽と月を回る私たちと地球に光と希望を注いでくれているのだとのメッセージを受け止めるよう、太陽と月、地球と宇宙と感じるを感じて会話を促してくれました。」
その後にお手紙を頂いた先生にお礼の電話を差し上げ、「人との会話が不得手で人間関係の構築ができない娘のことをご相談いたしましたら、『感じるを感じた』そのままを描ける、会話のように表現でき交流することが出来る素晴らしい会話ツールの能力という個性の持ち主と思います、このような対話絵を描き続けて多くの人に宇宙と一つになるための対話、その大切さを伝えてください。『コミュニケーション画家のタマゴ』の成長に大きな期待を持っています。と、障害者を「さわりがある人」と勘違いをしないで素晴らしい個性の持ち主と自覚を持ってお育てください。」
この度、「ダンスをする自転車たち」を人生120歳プロジェクト大賞に応募することにしました。この絵は画用紙いっぱいに自転車たちが楽しくダンスを踊り嬉しさを表現している作品で、自転車は人や自然を傷つけているCo2を発生しない、老若男女の誰もが愛用してお買い物や幼稚園の送り迎えなど生活の中で便利に働いてくれるものです。人に優しく地球にやさしい愛してやまない、彼女が自転車とのコミニュケーションから生まれた地球を愛する希望の会話画です。彼女が一年間に自転車をテーマにして書き続けた多くの中から一点に絞りました。
彼女が世界の多くの人や、自然、地球と宇宙との会話画で交流することを願って、希望を表現した、「ダンスをする自転車たち」で人生120歳プロジェクト大賞に応募できたことに感謝します。
大門薬品賞
ドリンク剤ユニーD3000
(3名)
筑豊製菓
株式会社賞
黒糖のど飴 生姜入り
(14名)
現在わたしは49歳 毎日日記をつけている。
このまま70歳ぐらいまで現在勤めている会社で働き70歳を過ぎたらそれまで書き溜めた日記やそれまでの経験をもとにエッセイなどの懸賞に応募しまくる。
70歳をすぎたら日々の生活を楽しみながら時々旅行に行きリフレッシュしていろんな懸賞に応募する。
そんな生活を85歳ぐらいまで送る。
85歳からは健康に気を付けて朝ウォーキングをしながら庭先で家庭菜園をやる。
そんな生活を100歳まで送る。
100歳からは健康に気を付けてTVを楽しみにインターネットをしながら生活する。
そんなかんじで120歳まで生き続ける
ぼくの祖父母をみていて思うことは、定年退職が60才ではもったいないということです。
まだ十分動けるし、働ける。もちろん高血圧の薬や整体に行く時間も必要だけど、
上手に体を使えば、まだまだ60才以上の人をいい意味で利用して、日本を活性化できると思います。
具体的には定年退職は健康状態で決めるといいと思います。
高血圧がひどい人や透析が必要な人などは定年にして、薬だけですむ人は定年にはしない・・・などです。そうすれば日本の労働力、生産力が上昇します。
そのお金で国は老人村を作り、老人のためのバリアフリーの家に住み、
その村でカフェを営んだり、野菜を売ったり、釣りや将棋、囲碁、裁縫などの教室を開いたりして
収入も確保しながらぎりぎりまで働けるというものです。
老人村に行くと楽しいことがいっぱいになるように、死に向かうことに恐怖がないように、
国がバックアップしていくといいと思います。
『人生120年と考えて』
今年70歳を迎えることが出来た私、この120年テーマを見つけた時に、「そう言えば数か月前後にウェブニュースで人生100年」を提唱していたのを思い出したのである。
90歳の3分の2が60歳とすれば、120歳の3分の2は80歳になる。つまり人生を120年とすれば同率配分で80歳定年と算出することになる。この3分の2と云った定数は学術的には何の根拠もなくただの私のヤマ勘だけである。あえて理屈付けをしてみると、3分の2働けば、残りの3分の2は、働いた人だけへのご褒美として「余命」を、「人間」らしく、「その人」に相応しく過ごせれば、何故か納得してしまうから不思議である。
現実を見ると、定年までの60年が決して不満だらけと云うことでは無い。社会的地位の違いが有ったとしても、社会との何らかの関わりが有った限りは、それで十分に充実した人生だったと満足されている方も少なくないと筈だ。むしろ余命が退屈過ぎて、現役時代を懐かしく後戻りしたいと云う人が居るかもしれない。それならいっそ、定年を80歳まで引き上げることで、120年人生に沿う社会的構図が描き易くは無いだろうか。
「80歳じゃ使い物にならないよ」
成るほど、頭脳や肉体の老化を気にされているようですね、現在の80歳を考えると、確かに一理あることだと思う、でも私が話しているのは今直ぐの話しでは無く、10年、20年先を設定したものです。現に70歳の私は現役を退いてはいるものの、ジムに行ってはランニングマシンで早歩きやジョギングをし、背筋、腹筋の運動も続けることが出来ている。更にはプールでは一日に一キロは泳ぐようにしている。私のイメージでは、後10年、これを継続することは決して難しいとは思わない。
だが、あと10年間、体を動かすことなく自宅でテレビのお守りをするだけと想定すれば、そのストレスが寝たきりを招き、介護の手を煩わすことになるかも知れないのだ。
政府だって、被介護者の絶対数が激減すれば社会福祉の予算に頭を悩ますことは無い。80歳まで働き、その後に年金受給となれば、少しは厚生労働省のプラン創りに猶予が出来るとも考えられる。その上で更に、「定年後も介護レス」のキャッチフレーズと共に体力作りの立案、そしてその実現に向かって政府、自治体の積極的な展開が必要となるだろう。
これに似た行政のサービスを、既にどこかの自治体が実行されているようだが、コミュニケ―ションと体操の場を提供するだけで、要支援の対象者が無くなったとか、激減したとか。つまり予算の配分が移動しただけで、市民が元気になってしまったという実例である。
人生120年として、これまでここで語った私の思いつきを具体的にすると、こうである。
(1)国民全員に、スポーツ予算を給付する。それは、施設のギフトチェックで有ってもいいが終身の精度とする。つまりこうだ、
○労働時間=仕事時間+スポーツ時間とする。
○3か月に一週間のレジャー休暇を設ける。
(2)サラリーマンの定年を80歳とする。
○60歳を基本に、肉体労働を軽減する。
(3)現在の無料定期検診や介護保険制度の見直しをする。
○それらの予算でスポーツ予算を充実させる。
○介護施設にジムやプールを併設する。
たとえば、このような肉体ケアのプランを具体化して行く段階で、現実性のある人生120歳を語るのも楽しいではないか。
勿論、全員が120歳まで長寿するものでもない。これはあくまでも長寿記録者の話しであって、平均すれば男女とも95歳ぐらいには伸びるような気がする。何度も云うがこれは、あくまでも私の勘であって根拠は無い。
「いつまでも地域や家族に貢献できていたらいいな。」
2つ出来ればいいなと感じる事があります。
1つは人生120年となればできる限り健康でいて地域・家族に貢献したいです。仕事を引退した後も趣味の畑を耕し、孫・ひ孫の世話をして、地域をきれいに保てるような活動に貢献していければいいなと感じます。もう1つは同い年の妻と120年そばに入れたらいいなと感じます。小さい頃からの幼馴染なので100年以上も一緒にいるとなるととても長く感じますが、それはそれでちょっとたのしみかな?と感じます。変わっていく未来の地元の町をゆっくり感じられたらいいですね。
人生が120年だったら私はそれを4つに分けて考えようと思います。30歳までが第1期、60歳までが第二期、90歳までが第3期、120歳までが第4期です。こうした節目をつけることで30年間を生き生きと過ごすことになります。具体的に言えば第1期は、目標持って生きる時期です。若さがあるので、それを生かし、ばりばり生きる時期です。家族を持ち、子育てにも忙しくなりますぐら仕事と両立させる時期です。第二期は、円熟を生かして生きる時期です。1期で身につけた力を生かし、後輩にアドバイスをしたり、助けたりする時期です。子育てもひと段落し、自分の時間を大切にする時期でもあります。第3期はやりたいことに邁進する時期です。子育ても終わり、孫に囲まれるはずです。自分の時間も確保できるので、この時期にこそ、やりたいことをやるべきです。旅行でも、スポーツでも、とにかくやりたいことをします。体力は落ちても、お金と時間はあるので、大丈夫です。第4期は終わり方を考え、実行する時期です。終活をめざし、子や孫たちに何を残すのか、を考えます。そして、自分の人生を振り返り、それを文に残します。以上がわたしの考える計画です。
たくさんの地球家族を作り人生最後まで価値のある
幸せな夢と希望にあふれた人生を創造して行きたいです。
私には夢がある。やりたい事、やらねばならぬ事がある。59歳の私にとって、残りの時間には限りがある。だからこそ、これからは人生120年設計に向けて、具体的にプランを立てて確実に実行に写し、検証し、さらにブラシュアップを重ねて、夢の実現に近づけたい。
35年余りの日興證券(現SMBC日興証券)での仕事は、私に多大なる影響と教訓を与えてきた。個人顧客向けの営業をした吉祥寺支店を皮切りに、米国シカゴで先物オプションを学び、シカゴ店駐在員として様々な取引所の商品を通じて機関投資家のトレーディングのサポート、特別金銭信託や年金特別信託のファンド運用に携わっていた日興国際投資顧問(現日興アセットマネジメント)でのファンドマネージャー、そして債券全般を取扱う金融市場部先物オプション取引課での東京、シンガポール、ロンドン、シカゴのグローバルトレーディングサービスやエクィティポジションユニット上場先物オプショングループでマネージャーとして、ワールドワイドな視点から世界のマーケットを見ていた商品部時代、それぞれの時代で経験した仕事は違えども、私にはどれも新鮮で、刺激的かつ貴重な体験をさせて頂いた。
そして59歳になった今、私には尚やりたい事、やるべき事がある。それは日興相続センターの設立である。日興グループ内には100%出資子会社である日興ビジネスシステムズの中に、相続事務を掌る相続事務センターがある。相続事務センターでは顧客の相続事務全般の業務を行っているが、営業部隊ではない。このため、顧客より相続財産の事務手続きについてはコンサルタント機能があるが、相続財産の今後見通しや現在の価格、将来の価格に関する問合わせに対しては、対応可能な範囲に限りがある。相続事務センターで対応不可能な領域に質問が及ぶこともしばしばで、その場合、営業部店に電話を転送する。
この時、顧客の反応は大きく二つに分けられる。支店担当者等に繋ぐ電話で満足する顧客、支店担当者に転送するならば自分から支店に直接電話すると言い切電してしまう顧客である。特に後者については必ずしも顧客満足度が高くない。さらに他者取引のある顧客は他社で相続事務続きから市場動向分析、マーケットの見通しを聞き、日興には売り注文だけ或いは他社への移管(資金流出)事務手続きの依頼につながるケースも見受けられる。これら顧客満足度の向上と、機会損失の防衛において、相続事務手続きから相続資産マーケティング迄行える組織改革が必要と考える日興マンや日興レディは少なからずいる筈だ。私が立ち上げのメンバー或いは社長であれば、9月末 迄に相続事務センターへの顧客からの通話量、通話内容をデータ化、分析検証を加えた上で、11月に人事異動を伴う日興相続センター準備室を立ち上げ、クリスマスには創設を計画する。
2019年3月には、60歳を超えた区切りが来る。現行では60歳を過ぎても継続雇用の道が開かれており、65歳あるいは部署によりそれ以降も再雇用の可能性がある。しかし、私にはやりたいことがある。2019年3月で日興を卒業する。そしてその後は、Kenny’s Holdgs. Inc.という持株会社をケイマン、ジャージーのいずれかで設立する。主な事業概要は以下の通り。運用業、アセットマネジメント事業、プライベートバンキング事業、古物商、酒類販売店業、E-コマース支援事業、ペット葬祭事業等である。それぞれの事業は独立採算性、事業内容ごとに親会社である持株会社からの出資と銀行借り入れを元にビジネスプランを立案する。剰余金の一部は社会貢献の一環として、母なる地球に恩返しができるようなアクションプランを各社策定する。勿論、グループ各社がジョイントで行うボランティア活動も大いにバックアップする。災害復興支援については、NPO法人を設立、グループ各社から一定の額を積み立て基金と設立、世界中の災害に対応できたらすばらしい。「出来ることは直ぐ実行」を社是として設立とするNPO法人では、子供に恵まれないカップルに対する養子縁組の支援も行う。人生120歳時代の到来は、その婚姻関係や養子縁組の多様化等、根本からそれまでの常識や考え方を覆すことにも繋がる。
20世紀に入り着実に右肩上がりを続けてきた平均寿命曲線は、21世紀のこれからの人類の生これからの人類の生活環境を劇的に変化させることになろう。今世紀中には、今の20代が100歳を迎える頃になると、総人口の5割以上が100歳超えという事態を想定する学者もいるやに聞く。人生120年設計の中で、雇われの立場から雇う立場に変わろうとも、初心忘れる場からず、産湯を浸かった日興マンの誇りを胸に、夢の実現に向けて今、初めの一歩を踏み出したい。自分の幸せより、地球上の人々の幸せを願い、精進を続けたい。
『蓮の花と120階段』
作品の題は『guide』です。魂の成長を、案内するガイドとして、120年の人生を生きます。
作品の題は『愛』です。人類と地球の平和のために貢献する人生を描きました。
作品の題は『地球に感謝』です。
作品の題は『虹と光の地球』です。地球の未来は虹と光がいっぱいのイメージで作りました。