【地球アレコレ22】 タイ4

現在、世界で主流となっている宗教はキリスト教・イスラム教で、この二つで世界人口の半分を越えます。次に多いのはヒンズー教で、これはインドの人口の多さも関係しています。仏教は信仰している人の割合でいえば、世界人口の約5%くらいだと言われていますが、ダライ・ラマの影響もあってか信者そのものは世界に散らばっており、キリスト教・イスラム教・仏教を三大宗教と呼ぶことが多いようです。

 

日本で宗教というと色眼鏡で見られることも多そうですが、でも何か一つの行動指針、行動原理だと思えば、まあ誰でも何かしら信じることがあり、信仰心もあると言えますね。
お金が一番だ、お金のために勉強もして研修会にも参加して、という方にとっての行動原理がお金だとすればお金教。世の中を儚んで、斜に構えて生きる人は、そうした傾向を強化させる情報を本やネットから仕入れて、己の斜教(?)への信仰を強める、というように。

 

それはさておき、世界人口の半分以上になるアブラハムの宗教と呼ばれるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、偶像崇拝をタブーとしています。神を可視化してはならない、ということです。キリスト教も、神の子キリストは神の代理人であるというだけで、キリスト像そのものを拝んでいるわけではありません。一方、仏教は融通が利くというか、自由自在というか、悟りを覚えた人(覚悟のできた人)をたくさん偶像にしつつ、この東の果ての国では仏像といえば観光名所、みたいな雰囲気さえあります。

 

タイでも日本の八百万の神という発想同様、土地の神を祀ったり国王を祀ったりしていますが、仏像の多様さも目をひきます。

前々回で紹介した寝釈迦像、満面の笑顔の仏像、痩せ細った仏像、そしてこんな肥えた仏像。いやあ、よく肥えて元気そうです。古都アユタヤの無数にある寺院の一角にポツネンと設置されています。ブッダがこれらを見たら、「おいおい私は何人いるんだい?」と尋ねそうなほどです。さすがにトイレ中だったり食事中だったりする仏像はないようですが、でも逆に、どんな姿であっても悟りと関係ない、ということをそれとなく示してくれているかのようです。
違う言い方をするなら、人は誰でも悟りの境地にたてて、それと食べたり寝たりすることに一線を引く必要がない、ということでしょうか。

 

Change提唱者の一指 李承憲氏は、悟りの一側面である自由について、“自分の体と心を思い通りに扱えること”と言っています。多くの人々が、体からの欲求や心からの執着に振り回されていることを思えば、確かにその通りかもしれません。悟りは、自分が体ではなく、心(思考や感情・観念)でもないことが分かる、つまり本当の自分が分かり、その本当の我として生きているから、その我が、体や心をあたかも自分の服を自由に扱うように自由に使うことだとすれば、体や心の欲求の意味合いが変化することでしょう。それらは単に肉体を持つヒトの当然のことであり、空腹だからとか逆に太っているからとか、そうした状態が本当の我を生きることの障害にはならない、ということのようです。

 

よく肥えた仏像も、単に体としての側面を表現したことであって、ブッダの本質や精神は仏像にあるわけではない、むしろそれは自分の内にあり、それを活用することもできるもの、そうしたことを深遠に伝えてくれているのかもしれません。
タイ王国の仏教思想は、目に見える多彩な仏像を通して、目に見えない心の中、自分の奥深くに問いかけます。偶像崇拝を禁じている宗教が目に見えない神というエネルギーを通して、目に見える現実世界に精通していくことと、ユニークなコントラストを描いているかのようです。本質的にはどちらも同じことかもしれませんが。

 

 

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