【地球アレコレ24】 タイ6

 

【仏像】といえば、小さいものから大きなものまで、質素なものから絢爛豪華なものまで、とりあえず敬意を払うタイの人々。街の露天商が扱うネックレスになる小さな仏像にまで、手に取るときは軽く瞑目したり、合掌したりします。手のひらに収まるくらい小さな仏像でも、無造作に扱うことはなく、手に果物を持っている時とまるで違います。

 

上座部仏教では、頭頂を極めて大切に扱います。エネルギーでいえば、7番チャクラですね。そこを触れることはタブーとされていて、まだ幼い我が子の頭を撫でる、ということも普通はありません。まして他の子供の頭を撫でるなど、とても非礼なこととされます。なので、一般の人々は仏像といえど頭頂部はなるべく触れないようにしています。7番チャクラ、百会(ひゃくえ)は、あらゆる情報が出会って入るところ、天からのエネルギーが入るところとされていますので、そこをふさぐことは天との繋がりを断ってしまうこと、そうしたエネルギー的視点も確かにありますので、一概に俗習・迷信の類と言いきれない部分です。

 

タイのみならず、東南アジア圏全般で見る習慣の一つに、首を一瞬あげる、というのがあります。東アジア圏では【はい】という意思表示のために、うなずく=首を一瞬下げます。東南アジア圏では逆に首をほんの少し上げます。そうした習慣もまた、頭頂部を大事にすることとの繋がりがあるのかもしれません。うなずくことで頭頂を相手に近づけたり、人に頭頂を差し出す【お辞儀】などを避けたり、と見ればナルホド、ですけど。でも仏教伝来前はどうやって意思表示をしていたのだろう・・・。地域の気候風土との繋がりだろうか・・・。旅人の夜なべ、妄想ですね。

 

ビジネスで、親戚づきあいで、色々な場面でペコペコしあう【お辞儀】。仕草から、相手に自分を差し出すという感覚だとしたら、日本は究極の相互信頼、宗教で名付けたら【人間教】かもしれませんが、タイ人がそのようにするのは、仏像や国王・国民的に知られた高僧の前でだけです。というか、日本以外で頭頂を見せる挨拶を日常的にする文化は見たことがありませんが。。。
タイでは仏像の前で膝を一瞬折って上体をほんの数センチ下げると同時に合掌(ワイ)をする人々をよく見ます。また深くお辞儀をするように祈る人々も、大きな寺院内の仏像前では多くいます。お辞儀は当然、仏像そのものに向けられた行為でしょうけれど、暑い中そこまでして仏像を造り続けている文化、仏像師の伝統の技、数千年も伝え続けられた教え、そうした全般に向けられていると言えなくもありません。

 

ゴータマ・シッダルタさんが願ったこと、思い描いた世界はどのようなものだったか、その通りになる方向へ向かっているのか~ 個としても、全体としても。そうしたことに想いを馳せながらタイの仏教文化をみていくことで、歴史の中での宗教の役割、今の経済至上主義世界での限界も感じたりするかもしれません。
日本は和の国に相応しく、またヒンズーで飲み込む(インド編参照)文化とも似ていて、仏教も日常に溶け込み、神道も溶け込み、キリストも溶け込み中で、古来より独自に伝えられてきた宗教はもう溶け込みきって何がなんだか・・・。タイの仏教は、何が日本に溶け込んだ仏教なのかを、首をスッと上げる仕草でニコッと微笑みながら教えてくれているかのようです。

 

Change は、自分を深く分かることで、自然、自ずから然り、となることでもあります。
自分の宗教観、ある意味では先入観、固定観念を探り、使うべきときは使い、捨てるべきときは捨て、いつでも自由でありたい、そんなことも考えます。

 

 

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