禁触 ~中心を保つ


201405300
自己管理トレーニングの三回目です。
改めて思い出してみましょう。
一回目は、
止感 Jigam
二回目は、調息 Joshik
感情や思考を止めて、心と呼吸のリズムを調えて、
そして今回は、触れるのを禁ず、禁触です。
(英語での紹介は、avoid contact、
避けるという感じですね。)
葛藤のないことや内的な平和は、誰でも求めますが、
その持続ができたり できなかったりです。
嫌なことがあって心の平和が乱されたら、
突然【被害者】になって、もっと自ら平和を掻き乱し
ます。平和を保てなかった自分を脇に放置して、
感情が突っ走るのを許可したりします。
被害という意識には加害がセットですので、被害者の感情を
放置すれば、誰かを加害者に仕立てていきます。 政府だったり
政治家の誰ソレ、企業の誰ソレ。。。もっと身近には、家族だったり
友人、恋人、もっと身近には自分が、、、そして自傷行為が始まります。

なので、意識をしっかり保つ、何があっても心が乱れないくらい自分の中心に集中し、
感情にぶれないようになる訓練が必要です。それは心を殺す、鉄面皮になること、
ではなくて、意識を体内のあるところに集中させること。

では、米国Change サイトのブログより、一指 李承憲氏の記事をどうぞ!



自己管理トレーニング

 導きのために中心を保つ


   For Guidance, Stay Centered  イルチ・リーのエネルギー入門より


内的な静けさのため、または人生を明瞭に観るために

自分の気持ちや感情を鎮め、心と呼吸と調和させる訓練をしたことはあるでしょうか。それは、五感からの刺激に気を奪われることなく、自分自身の中心に留まること、中心を保つことなのです。韓国ではそれをGeumchok(禁触)と呼びます。

Geum(禁)は「避ける」を、Chok(触)は「接触」を意味します。つまり、Geumchokの訓練とは、自分の意識のノイズ・雑念となる、光景、人の声、臭い、味などから自分を自由にさせる訓練です。

自分の中心に意識を留めるためには、二つの方法があります。一つは自分の内に集中するために、あらゆる外部からの刺激を避けること。もう一つは、何があっても自分の中心から意識を逸らせないくらいに、自分の集中力を強化することです。

伝統的な禅(Tao)の訓練のなかで、修行者たちは時々、何日ものあいだ瞑想するための最小限の生活用品だけを持って、洞窟に自身を隔離しました。現代の一般的な生活の中でおこなうのは困難でしょうが、Geumchok(禁触)の訓練をすることは、様々な電子機器を遠ざけ、目を閉じて自分自身の内部を感じ、ちょっとした静かな時を過ごすことを思い出させるでしょう。

外部からの刺激を遮断することは、内部で気が散ることを完全には防げませんが、役に立つステップです。

止感(Jigam ~エネルギーを感じることで心を静める)、

調息(Joshik ~息のリズムを調える)
これらの訓練もまた、自分の内部で発生する雑念を収めることに役立ちます。

集中力強化のためのパワフルな方法の一つが、ヨンダン(練丹)であり、5分から20分くらいの長時間、エネルギー姿勢を保持することです。

(※ 編集者注…ヨガでお馴染み、きつい姿勢をとる)

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その姿勢を保持しながら、おへその5センチ下にあるエネルギーセンター(臍下丹田)に集中します。エネルギー姿勢は、体のエネルギー循環と蓄積を強く刺激して、たくさんの思考や感情、また色々な身体感覚を引き起こします。
Geumchok(禁触)の訓練は、内部で作られる雑音・雑念に一切関係なく、下腹部の丹田に集中し続けることなのです。

Geumchok(禁触)を訓練していく別の方法として、目標にむかって情熱的に集中し続けることもあります。猛烈に飢えているとき、食べ物以外に何も考えません。本当に喉が渇いたとき、心にある全ては水関連になります。同じように、もし何かを欲して、ずっとその一点だけに集中していられるなら、それがもう禁触の訓練が達成された状態です。ですが、本当の禁触とは、真の私ともいうべき、自らの内なる偉大さへと導くことができるものであるべきです。

止感Jigam、調息Joshik、禁触Geumchok、
これらの瞑想テクニックで内面の静けさが実現したら、自分を客観的に観察できます。内なる光が、本当の自分が、輝いていきます。

たとえ一瞬でも、自分の本質、自分の真我を経験したら、他の様々なことは人生の中であるべき場所に収まっていきます。人生の目的と優先順位を決め、どこに向かう必要があるのか、何をすべきで、どうハッキリとさせていくのか、より明確に分かったり、すっと感じたりするでしょう。
もし意識が、自分の本質、自分の真我とずっと一つになっていることができなくても、その真我は、人生の意志決定と成長の機会を通して、ずっと私たちを導くガイドの光でいることでしょう。

元記事はこちら

 

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