死とは何か


2014120602

生の数だけ、死もあります。生死の数が合わなかったら大変です。
生命については、いろいろな体験もあり、映画やドラマでもたくさん
描かれています。
生命を際立たせるために死が描かれることもありますが、死そのものが
正面から伝えられることは、あまり多くはありません。

わざわざ正面から見なくても、ねぇ・・・
いや、別に死を恐れてないしィ・・・
まあ、そうした反応があることはさておき。
より良く生きるための、一つのステップです。

一指 李承憲氏の記事を米国Changeブログよりどうぞ~!

  死とは何か 
  ~ What Is Death ?

一指 李 承憲

   2014120601

死とは、何でしょうか?
人間が自己認識するようになって以来、必ずやってくる不可知の死は、恐れと想像の源を形成してきました。私は、エネルギーの法則と私自身の経験から、自らの死を引き受けています。
死とは何かを答えるために、まず先に言うべきことがあるでしょう。つまり、生命とは何か、です。生命の最も大きな感覚は、ライフ・パーティクルの途切れることのない流れ、或いは物質と意識、そしてエネルギーの統合です。ライフ・パーティクルには、始まりもなく終わりもありません。創られたものでもなく、破壊されることもありません。したがって、ライフ・パーティクルのレベルでは、生まれることも死ぬこともありません。生命そのものは永遠です。

時として、純粋かつ完全なライフ・パーティクルが、目に見える形と共に来ます。それを私たちは、出生と呼びます。そして死は、この目に見える形が崩れて、不可視のエネルギーになること。ですから、死とは単にライフ・パーティクルとして、変化することです。決められた存在から、漠然とした無限の存在に変わることです。

瞑想中に無我の状態に達することができるのなら、生命の本然たる無限を経験するでしょう。それは五感で分かっている定義された生命の特質よりも、生命自体によって、生命のなかに、生命そのものとして存在する生命を感じることができます。

その状態では、定まった形や一時的に過ぎない形への愛着、執着から自由になります。もし死の瞬間に自由な存在となりえて、死とは単なる変化だという意識で死に近づいていけるなら、永遠たる生命そのものの状態を経験します。もし軽やかな心で存在の次の段階へ移っていけるのなら、そして愛してくれる人々にこう言えるのなら、もう悟っています。
「私が死んでも泣かないで。私は完全な魂だから泣く理由なんてないよ。美しい音楽を奏でて私の人生を祝って、これからの道も祝福しておくれ。」

自由に軽やかに死ぬことは、人生が完成したことを意味します。私は、この精神的な完成をチョンファ(イ天化)と言います。(ニンベンに天;造語)
チョンは、天・命の源を意味し、ファは、形を変えることを指します。この最高の死を通して、純粋で聖なる命の根源エネルギーへと変化するのです。

2014120604

このように死ぬことは簡単ではないでしょう。私が勧めるのは、普遍的な天の原理を学び、心身の訓練を通して原理を体験し、行動でそれを表現していくという人生です。このプロセスで、手放していくことを学ぶでしょう。欲望や感情などに執着しない、ということを発見するでしょうし、どうすれば認められるのか、何を所有していて管理をどうしようなどと心配したり悩んだりしなくなるでしょう。天の原理そのままに生きていくために最善なのは、心も魂も幸せにする目標を定め、その目標を成し遂げるために天の原理を使うことです。

死は、私たちみんなに待ち受けています。
恐れることとして扱うこともできますが、その代わりに、人生の親密な友人としてみることもできます。死を受け入れ、人生の余分なことを放り出すこと。それは将来何が起きようと、人生の一瞬一瞬を豊かで有意義なものにすることでしょう。このように、死は生命を、生命は死を、教えてくれるのです。


 

 

 

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